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South Korea vol.7 「 近くて遠い国 」

 「 近くて遠い国 」 そう言われて久しい今日この頃の日韓関係だ。 それはもちろん物理的な話ではなく、心理的な問題だ。 地理的にみればこんなに近い国は他にないのに。 こんなに文化の似ている国は他にないのに。 そう言われる所以はどこにあるのだろうか?



 歴史的にみれば隣り合う国同士は仲が悪い。 だからこそ、国境が存在するのだ。

 そもそも領土問題や宗教問題、経済問題などがなければ国というものそのものの存在さえ必要でなくなるのだが、個人や国の利益追求型の今の世の中そうはいかない。 更にそういう火種からいつの時代も争いが絶えなかったのは歴史がそれを証明している。 そういう経緯を踏まえて成り立っている国家間の仲が良好でないのは理解出来る話であり、いつの時代も変わらない話だ。

 しかし、僕にとって、こと日韓関係となると話は別物のように思える。 それは日本人である自分が絡んでくるからだ。 他の国同士の話ならば、それは正に他人事で、今起こっている現実があたかも過去のことのようにさえ思える時だってある。 しかし、こと日韓関係に至っては僕も当事者となるのだ。 



 それは国家間の問題なのか?



 きっとそれは個人の問題だと僕は思う。 日韓政府や市民団体が歴史教科書問題や、竹島の領土問題、北朝鮮問題について話合いや協議を重ねていくのはもちろんのことなのだが、それよりももっと個人が積極的にこれからの日韓関係を考えて、行動していくべきだと僕は思う。

 それは、始まりがPOPカルチャーでも、韓国へのエステ・買い物ツアーでも、伝統芸能鑑賞でも、韓国映画でも良いと思う。 そういうステージから次なるステージへと歩を進める努力をして欲しいと思う。 また、自分自身そうしていきたいと思うのだ。



 旧日本軍が朝鮮半島を支配して、その過程における残虐・野蛮な行為から、日本の老若男女が目を背けている状態が続いている。 しかし、人は歴史を踏まえて前進するべきなのだと思う。

 20世紀は破壊の時代だったと言われている。 もしそうならば、21世紀は創造の時代になって欲しいと僕は願う。 特に日韓関係についてはより良い関係を築き上げることが出来たら、、、 と、そう願うばかりだ。 その為には勇気を持って、知る努力、理解する努力、協力する努力を惜しまないことに尽きると思う。





 僕にとっても「 近くて遠い国 」だった韓国は、今回訪れることによって、自分の足で歩くことによって、自分の目で見て知ることによって、少し距離が近くなったことと思う。 それは物理的な意味合いよりも、やはり心理的なことだったのだと改めて気付いた。

 「 もっと韓国のことを知れたら 」と、そう思わせるきっかけになる今回の韓国への旅だった。






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by hitoshi280477 | 2005-04-27 01:17 | South Korea

South Korea vol.6 「 日韓歴史問題を考える  」

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 ソウルより電車で一時間強、天水というところに国内最大規模の博物館がある。 独立記念館だ。 そこでは旧日本軍による朝鮮支配時代の様子が見れるということだ。 アクセスの困難なことと、その内容そのものから、日本人旅行者には少し敬遠されている場所だが、僕はそれを見るために足を運んでみることにしたのだった。



 博物館にはたくさんの展示・情報があるのだが、その一角に日韓の歴史もある。

 どこか落ちつかない気持ちでその展示室を探し、韓国側の主張する「 その歴史 」と対峙した。

 以下は、僕がまとめた韓国側から見た当時の歴史だ。



 豊臣秀吉の朝鮮出兵の頃より、日本には朝鮮支配という野望が高まってきた。 明治維新後には「 征韓論 」という言葉が出てくるほどになり、それは日本が二つの戦争に勝つことによってより具体的となっていった。 すなわち、日清戦争(1894)、日露戦争(1903-4)だ。

 そして、朝鮮での東学農民軍の一揆が起こると、日本軍は朝鮮政府の要望もなしに軍を派遣し、これを鎮圧し、また残虐した。 そして、強引に「 韓日議定書 」を結ばせた。 それは、朝鮮を軍用地として利用するという侵略的な条約だった。 これ以後、事あるごとに朝鮮にとって不利な条約を強引に結んでいき、そして遂に朝鮮を日本の一部とする行動、すなわち「 韓国併合 」に踏み切り、更なる介入を経て本格的な植民地時代へ入ることになった。

 併合後、韓国統監府なるものを設置し、それを朝鮮総督府という位置付けにしてからは更なる内政干渉をし、それは懐柔、買収、脅迫という手段を通じて養成された親日派を産み出し、立法・司法・行政・軍事の面で支配するようになった。 その頃には「保安法」、「治安維持法」、「集会取締令」など人身拘束的な法令を定め、全国に4万人の憲兵・警察、2万人の憲兵補助員、2万人の歩兵を配置するに至った。



 そして、1910年の「土地調査事業」を皮切りに経済侵略と収奪が始まった。 62%の国土を朝鮮総督府のものとし、その土地を東洋拓植株式会社や日本人移住者に売却した。 そうすることによって、韓国人は小作農や流浪民に成り下がっていったのだった。

 1911年、「鉱業令」・「山林令」・「漁業令」を制定することによって土着産業の抑圧、資源の収奪、産業の独占をし、1920年の「産米増殖計画」では米穀の略奪を公然のものとした。

 1930年代には三井・三菱等の大企業が進出し、戦時中の軍需産業の育成に努めた。 こういった経緯を経て、朝鮮は旧日本軍による中国侵略のための軍事基地となっていった。



 また旧日本軍は朝鮮の伝統文化を劣等で非科学的なものと罵倒し、それらを組織的に破壊した挙げ句、日本文化を強要した。 宗教、歪曲された朝鮮史、日本語、神社参拝、日本式の名前、植民地教育、文化遺産の破壊と略奪、そして皇民化政策、、、 韓民族は日本社会の最下層と位置付けられ、奴隷のように扱われるようになっていった。

 1937年、旧日本軍における中国侵略のために「国家総動員法」を発動し、朝鮮の人的、物的資源も次々と導入されていった。 農民からはお米を、一般人からはその労働力を、そして女性は従軍慰安婦(性的奴隷)として搾取された。 強制貯蓄や、公債の強買を行ったり、一般家庭の食器や箸、鐘までも奪っていったという。 結果として、600万人に及ぶ人的動員が記録されている、、、


 1945年、旧日本軍の無条件降伏により、朝鮮は解放された。






 不思議とペンがよく走った。 僕は展示されているものにへばりつくようにして、ノートを取り続けた。 自分でも驚くほど集中していた。 、、、が、正直、背後からの視線が気になった。

 もし僕が日本人だということが知れたら? もし誰かが歩み寄ってきて、罵声を浴びせてきたら? もし誰かが僕にこの歴史・問題について意見を求めてきたら?

 僕はその準備は出来ていなかった。 そのせいで、正直少し怖い気もした。



 老若男女を問わずここを訪れる地元韓国人は多い。

 そして、皆がこの「 抗日戦争記念館 」とでも言うべき博物館を訪れている。

 皆、これらの資料を、写真を、歴史を見ているのだ。

 旧日本軍に侵され続けた時代のことを知っているのだ。





 「 日韓歴史問題 」。



 中国のそれと並んで今の日本として対処していかなくてはならない問題だと思う。 しかし、それを主として活動している団体からの声のように、日本は正しい歴史を伝えようとはせず、日本人はこの問題に関してすごく無関心だ。

 特に言われている教科書はひどい。 よく「 間違っている 」と言われているようだが、それは「間違っている」と、いうよりはむしろ「 あまりその事について触れていない 」というのが実情だろう。

 歴史的にみても重要なこの時代のことが、教科書によっては一行や、二行で終わってしまっている。 そして、臭い者には蓋をしようとする日本政府や、「 墓場まで、、、 」と思っている当時を知る人間たちもひどい、そしてそれ以上にそれらに対してあまりにも無関心な現代人が一番ひどい、と僕は思う。



 この問題、正直一番悪いのは大日本帝国であり、旧日本軍であり、それに関わった当事者たちなのだ。

 しかし、現代に生きる日本人で、少しでも日本のことを誇りに思い、日本人として絶大なる恩恵に被っているという事実を知っている者ならば、この問題に対処していかなくてはならないと思う。 ただ、それをするにも圧倒的にその時代のことに対する資料が少なすぎ、また一方的過ぎる。


 そういう状況下で何が必要で、何をすべきで、何が出来るのかを考えた。





 それは個人の力だと思う。





 国よりも、市民団体よりも、その何よりも先立つべきは個人なのだと思う。

 個人が率先してこの問題に興味を持ち、調べ、意見を持っていくべきだと僕は思う。 問題は国ではなく、過去の日本人たちではなく、今を生きる日本人がこの問題に対してどう対処するべきなのかだと思う。

 それが今後の日韓関係を左右するだろうと思う。






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by hitoshi280477 | 2005-04-26 01:15 | South Korea

South Korea vol.5 「 北緯38度線 板門店  」

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 「 出来るだけ手荷物は置いていって下さい。 というのは、何かあったときにすぐ走れるようにですから、、、 」と、ここを案内するガイドさんがそう言った。 バスを降り、顔をあげると目の前に3、4階建てのビルが堂々とそびえ立っていた。 「 板門店 」だ。



 ソウルから北へ約一時間半。 そこは今日現在、朝鮮半島を南北に分断している北緯38度線近くの南北軍事境界線だ。

 韓国の首都であるソウルから距離にして約80Kmしか離れていない。 韓国の人々は基本的にここ板門店を訪れることは出来ない。 しかしながら、外国人旅行者という身勝手な身分の人間たちは、韓国政府の認定している正規旅行代理店が主催する「 板門店ツアー 」に参加することでここを訪れることが出来る。 世界で最も緊張している軍事境界線=国境にだ。



 ソウルを出たバスは「 Unification Road = 統一路 」と呼ばれる板門店までまっすぐに伸びる道路を行く。 道中、付き添いのガイドさんが韓国の歴史から、日本の朝鮮支配時代、朝鮮戦争(韓国では韓国戦争と呼ぶ)などを簡単ではあるが、充分まとまった話をしてくれた。

 しばらくすると、バスはいつしかソウル郊外を走っていた。 何処か懐かしい、日本の田舎のような畑や緑の多い風景が広がっていた。 気付いたことは、ソウル市内では道路の幅がもっと広かったこと。 しかし、ここまで来ると道路もほとんど片側一斜線だ。 話によると、ソウルの道路の幅が広いのはいつでも有事に備えるためとのこと。 つまり有事の際に、軍隊が出動し、行動しやすいように道路の幅を広くしてある。

 さらに、道中不自然なトンネル、と言うよりはゲートを幾つも通った。 これにも理由がある。 もし仮に、北朝鮮軍が今の南北軍事境界線を越えて南側に侵入してきたことを考えてこれを用意してあるのだと言う。 話は簡単だ。 そのトンネルには爆弾が備えてあるので、もし軍用車両がこの統一路を南下するようなことがあったら、ゲートを爆破し、統一路をブロックするのだ。 そんな、映画の中だけのようなことが、目的地に着くまでの話の内容だった。



 「 JSA 」と呼ばれるエリアがある。 「 Joint Security Area 」つまり、共同警備区域だ。 共同警備とは国連軍と北朝鮮軍による合同での警備だ。

 以前は、そのJSAの中には境界線というものは存在しなかったが、1976年に起こった「 ポプラの木 」事件(区域内のあるポプラの木を巡って衝突が生じ、結果として米軍兵2名が死亡)や1984年の「 旧ソ連人の亡命 」騒動(北朝鮮側で観光をしていた旧ソ連の若者が突如境界線を越えて亡命を謀って逃亡しようとし、北朝鮮軍の警備兵が武装したまま韓国側に侵入したため銃撃戦となった)などのせいでJSA内にも境界線が引かれることとなった。



 区域内では、簡単なスライドショーを見てから、「 何があってもその責任を問いません 」という重要な書類にサインをする。 それからJSA専用のシャトルバス(至って普通のバス)に乗って区域内を案内してもらう。

 世界一危険なゴルフコースの脇を通って、早速板門店に着いた。 「 荷物を置いていって下さい、、、 」と言うのはガイドさん。 有事の際には、、、 という言葉はよく耳にする言葉だが、ここではその有事が本当に有り得る環境なのだ。 そして、続けて「 建物内では話は厳禁。 二列になって進むように。 写真は撮れますが、撮る場所・方角に注意して、、、 」と言われた。 ガイドさんの真剣な様子に、何となく参加してきた人たちにも緊張が走る。


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a0086274_1583140.jpg 建物を通り抜けると、そこには韓国軍の兵士が囲むように軍事停戦委員会の「 会議室 」があった。 中にはその会議で本当に使用されている大きなテーブルがある。 その中央より北側は北朝鮮、南は韓国というように会議室の中でも境界線は引かれている。

 その会議室は北朝鮮と韓国の警備兵が交代で警備を担当することになっていて、韓国客が入室出来るのはもちろん韓国軍の警備の時間帯のみ。 観光客はその会議室の中だけでは、好きなようにその境界線を越えて北朝鮮に行くことが出来るのだ。 そして、その境界線を跨ぐ様に韓国側の警備兵士が立っている。 「 いつでも動けるように、、、 」。 あたかもそれがここのキーワードかのように、その兵士も韓国を象徴する武道、テコンドーの先頭準備の型で構えている。 

a0086274_1592769.jpg また建物の外で待機する兵士も同じように身構えている。 体を半分建物に隠しているのは、その建物にいつでも身を隠して守れるように、とのこと。 大きなサングラスをかけているのは、北朝鮮警備兵士に視線や目を読まれないようにするため、とのことだ。 ここにいる兵士は皆大きい。 間違いなく、両国の選りすぐりのエリートが終結しているのだから、、、 会議室脇のコンクリートで造られた軍事境界線を見て、僕は何だかやるせない気持ちになった。 


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 「 Bridge of No Return  帰らざる橋 」

 1953年の停戦後捕虜送還が行われた際、捕虜たちがこの橋上で南北いずれかの方向を選択すると二度と帰って来られないことからそう名付けられた、、、

 今も残る南北分断の象徴の一つ。





 大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で朝鮮半島の主権を巡って勃発した紛争から発展した国際戦争、、、 1950年の話。

 こんな状態がいつまで続くのか、、、

 引き裂かれた同一民族の関係の修復は非常に困難なことのように思える。 けれど、いつか本当の意味で統一されることを願います。






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by hitoshi280477 | 2005-04-25 01:14 | South Korea

South Korea vol.4 「 戦争記念館 」

1950年6月25日 午前4時。

 突如、北朝鮮軍が当時朝鮮半島を南北に分けていた北緯38度線を越えて、韓国側に侵入したことがきっかけとなって勃発したのが「 朝鮮戦争 (韓国では韓国戦争と呼ぶ)」だ。 



 日本の無条件降伏をきっかけに終焉を迎えた第2次世界大戦。

 それと同時に日本の朝鮮半島支配も終わりを迎えた。 日本軍の武装解除を行うという大義名義で、ソ連は軍を派遣して朝鮮半島の北側へと侵入してきた。 朝鮮半島の共産化を恐れたアメリカは、それに呼応するように軍を派遣し南側へと進駐した。 これが後の1948年、朝鮮半島の北に朝鮮民主主義人民共和国と南に大韓民国という2つの国家樹立という形になり、朝鮮半島が2分されることとなった。 

 それは両国家間の思想の差異の拡大、統一朝鮮国家の指導権を手に入れる争いへと発展していった。



 そして、1950年6月25日。 午前4時。 朝鮮戦争が勃発した。

 南進した北朝鮮軍は3日後には首都であるソウルを陥落する勢いで、瞬く間に韓国の国土のおよそ3分の2を制圧してしまった。 国連軍やアメリカ軍がこの朝鮮戦争に参入し、仁川上陸作戦(現在、新国際空港がある場所)が成功したお陰で韓国軍はやっと北朝鮮軍を北緯38度付近まで押し返すことが出来た。

 しかしながら、その北緯38度線の攻防は一進一退を重ね、北朝鮮の次は中国という事実から中国も100万人と言われる規模の軍隊を派遣した。 朝鮮半島の冬の寒さによって多国籍軍である国連軍は、寒さに強い中国軍に押される形になったりもした。 3年ほど続いたこの朝鮮戦争は土地を荒廃させ、多数の民間人の犠牲者に加え、何百万もの離散家族を産み出した。 何よりも朝鮮半島に「 北 」と「 南 」を創り上げてしまった。





 この梨泰院にある戦争記念館では、そんな経緯が写真やスライドショーに解説付きで見ることが出来る。 「 朝鮮戦争 」と一言で表すことなどとても出来るものではないと、ここを実際に訪れて、自分の目で見ることによって僕はそう感じた。 さらに現代の日本では過去のように思われがちなこの話、こちらでは今も続いているのだと再認識した。

 そして、一つ日本人として忘れてはならないことは、直接的ではないにしろ、日本も関与していたということだ。 この戦争が生まれる原因は、日本軍のもたらした武力による朝鮮半島支配に大きく影響があったこと、それとこの戦争当時にアメリカ軍などが軍需物資を日本から調達していたため、日本は「 朝鮮特需 」に沸いていたということだ。



 そういう当時の日本を見て、当時と現在に生きる朝鮮の人々はどう思うのだろうか?






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by hitoshi280477 | 2005-04-24 01:13

South Korea vol.3 「 韓国伝統芸能 」

 「 韓国伝統芸能に触れる 」 そんなうたい文句に惹かれた僕は、韓国で一番と言われる貞洞劇場へと向かうことにした。 



 説明によると舞台は七つのステージっから成っており、打・弦楽器の演奏に、踊りや、歌、、、 などが主な演目だ。



舞台はいかにも伝統芸能の場に相応しいような楽器の演奏から始まった。 やはり楽器そのものも、日本のそれらとすごく似ていて、使用されていたものは縦笛と琴。 音色といえば、耳に心地良いというよりは、どこか懐かしさを感じさせるような、いつか何処かで見た景色を思い出させそうな感じのする曲だった。 まだ舞台が始まったばかりだと言うのに、観客の誰しもがその音色の深さに惚れ惚れとし、聞きいっているようだった。 



 そうすると、七人の女の人が登場してきた。 全員が韓国女性の伝統衣装であるチマ・チョボリを着ての登場だ。 昔の宮廷で踊っていたと言われる踊りを踊るとのこと。 その身に着けているチマ・チョボリは何故か以上に袖が長かった。 手を下ろせば、袖の先が地に着いてしまいそうなほどだ。 それを振り上げるようにして踊るわけなのだが、その姿、、、 とても優美なのだ。 昔の宮廷の人々がこれを見ていたのかと思うと、羨ましい限り。 今日、この舞台に立っている女の人たちも、その当時と変わらず、韓国選りすぐりのプロの踊り子たちなのだ。 線は細く、背はモデルのように高く、微笑みが絶えないが凛としているその誇らしげな顔、、、 そして、踊るのだ。 一人の先導役を中心に円を描いてみたり、横一列になったり、、、 それに合わせて振り上げられる袖の先が綺麗に揃う様なんかは、つい目を細めて見てしまう。 それほど、それは優美なものだった。 僕の心は何処か他所に飛んでしまったようだった。



 そうして、次はソリと呼ばれる歌のような、話のようなのをおばさんが始めた。 それは何かの物語のような、世間話をしているような、日本の漫才?のような、、、 そのおばさんが語る中、男は正に「 相槌を打つ 」という言葉がぴったり当てはまるように小太鼓を叩いていた。 話の中身は何にもわからない。 本当に何もわからないのだが、その独特のテンポに、おばさんの張りのある声に、僕はいつしかそれを楽しんでいた。 



 続いて、再び先ほどの踊り子七人組が登場した。 今度は手に大きな団扇を持っている。 大きなひらひらの付いているやつだ。 そうして先ほどの踊りと同じように輪になったり、横一列になりながらそのまま移動したり、、、 と。 誰がどうやってその振り付けを考え出したのだろうか? もちろん一朝一夕のものではないのは間違いないのだが、その流れるような展開の踊りを産み出した人々はすごい。 そして、それを、それこそ一糸乱れぬ様子で踊るこの七人の踊り子たち。 才能もあるんだろうけど、きっと日頃の練習の賜物なのだろう。 そうでなければ、、、 そう頭の中で思いつつ、その踊りに魅せられている間に踊り子たちはすっと舞台から消えていってしまった。 それはその演目花冠舞そのままに、花が風に乗って何処かへと行ってしまうようだった。



 幕が上がると大小様々な太鼓を手にした男たちが一番前に座っていた。 甲高い音のする金太鼓に、丁度膝に乗せられるくらいの大きさの革張りの太鼓、それにそれよりもう少し大きめで木枠にぶら下がっている太鼓。 それらを駆使して、5人の男が奏でる太鼓の演奏。 その迫力と言ったら! そんなに小さな太鼓たちでそこまで大きな音が出せるのか、と。 そんなシンプルな物で、そんなに多彩な音を作り出せるのか、と。 そして、太鼓を打つ男たちの激しくも、情熱的な様子と言ったら、、、 まさに驚愕だった。 そんなに激しい音なのに、きっと観客の誰しもが彼らの創り出した「音の世界」に引き込まれずにはいられなかったことだろう。



 三太鼓、そう舞台横のスクリーンに文字が現れた。 幕が上がるとそこには僕の想像していた三つの太鼓とは異なる大掛かりな太鼓があった。 それが僕の想像したのと何が違うのかと言えば、それは三つの太鼓が人の背丈ほどの高さに吊るしてあり、それが七人用に連なっているのだ。 三つの太鼓が吊るしてある中に正面を向いて立てば、背中に一つ、左に一つ、そして同じように右に一つという形になる。 そういう風にし切られたブースが横一列に七人分用意されている。 そして、その左右に配置された太鼓は両面から打てるヤツなので、隣り合う者同士が一つの太鼓を共有するという感じだ。

 誰がそれを打つのかと言えば、やはり先ほどから再三登場しているあの踊り子たちだ。 今度は太鼓を叩くという。 始まる前から楽しみになった。

 一人の先導役がその七人を煽るかのようにそれは始まった。 七人で同じように太鼓を叩くというのは、傍で見るものにとっても容易ではないのは一目瞭然だ。 それでも、やはり彼女たちはプロ中のプロなのだ。 リズム良く、小刻みに、どこか聞くに心地良い感じで始まった三太鼓は次第により激しいものへと変わっていった。 それに、その七人の時に激しく、時にしなやかな動きも加わってきた。 左右の太鼓を同時に叩いたり、クルクルと回って叩くというのは当たり前で、背中をのけぞって背後にある太鼓を頭越しに叩いたりもするのだ。

 僕はその様子を見て、、、 唖然としていた。 というのも、今までのどれもが魅力的で、驚きと興奮でいっぱいだったのだが、今度の三太鼓はもっとすごかった。 七人の奏でる太鼓の音には先の男たちのようなものすごい迫力というのは無いわけではないのだが、ある種のマスゲームのような揃った動きを見ているとそれは何だか幾何学模様のようにさえ見えてきた。 僕にとっての幾何学模様というのは、それを一心に見つめていると異次元の世界へと連れて行かれそうになりそうな危ない感じがするものだけに、その七人の太鼓を叩く様子は何処か魅力的というか、すごく不思議なものに見えてきた。 まるで何かの術にでもかけられた様な、、、

 

 そして、最後の演目となった。 サムルノリだ。 ケンガリ、チン、プク、チャンゴといった四つの打楽器を使い、派手な衣装に身を包み、頭には長い紐のついた少し滑稽で昔の中国帽みたいなのを被って、そして激しく踊りながら手に持つその打楽器を激しく叩くのだ。 その様子、どこか子供がじゃれあったり、遊んでいる風には見えるのだが、実はそんなに簡単なものではないのはそれを演じる男たちの動きを見ていれば伝わってくる。

 しかしながら、その激しいサムルノリは観ている者の心を愉快にしてくれるような踊りが随所に混じっているので、観ていて純粋に楽しいのだ。 この音と踊りが何を表しているのかと問われれば、きっと「 楽しむ 」ということなのだろう、とそう思う演目だった。 僕にとってはそれが、演じる男たちの顔から一番伝わってくるものだった。





「 韓国伝統芸能に触れる 」



 実は「 観光客向けのただのショーなのでは? 」というのが心のどこかにあった。 しかしながら、最初から最後まで僕の心は驚きと興奮に包まれていた。 そして、思ったことは、、、 「 人の持つ力 」ということだった。 楽器を使っての表現力、人を惹きつける演技力、大変な練習をこなす忍耐力、、、 それらの集大成がそこにはあったと思う。 それは何よりも人の力によるものだ。 僕の感じた何かは全て人の手によって産み出されたものだった。 そう、全ては僕の観たあの人たちによるものだったのだ。 そう思うと、僕の中では何かまた新しいものを発見したような時の、驚きと、興奮と、感動が込み上げてくるのだった。






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by hitoshi280477 | 2005-04-23 01:12 | South Korea

South Korea vol.2 「 ソウル散策 」

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 久しぶりのソウルの街には車と高層ビルが溢れているように思えた。 昔のソウルは街を走る車の速度が以上に速かったことを覚えているが、今ではそれは経済発展と共に伸びたであろう各家庭の自動車保有数がそれを変えてしまったようだった。 その分、空気はどこか汚くなった気がする。 それに何故か、以上に空気が乾燥している気がした。



 人々は、昔から思っていたことなのだが、服装に気を使っている人でもどこかぎこちなく、格好悪いのだ。 僕の印象では日本の田舎から出てきた人が、変に服装に気を使いすぎて余計な感じになってしまっている。 こんなことを言っては失礼なのだろうけども、それは本当のことなのでしょうがない。 もっとも、中国人のあの独特の格好よりは、服装に気を使っているという時点で少し高いポイントが付けられるかも。



 ソウルの街は、以前朝鮮時代に今のソウルに遷都して以来の都だ。 街を取り囲むようにして今も残る城門はその名残だ。 しかし、遷都してきたはずの都も、別段都市計画がなされたわけではないので、何処か他所の街のように街の道路が碁盤の目のようにはなっていない。 むしろ、わき道を歩けば、日本の下町のように迷路のような界隈になっていることに気付かされる。 今からでは直しようのないほどなのだそうだ。





 「 京福宮 キョンボックン 」

a0086274_16361346.jpg 1394年、朝鮮王朝初代国王「 対祖 」が漢城(現在のソウル)に都を開いたときに建てられた王宮。 思えばソウルには今もこの時代の建造物が多く残っている。 「たくさんの幸福が来るように、、、」という願いを込めて建てられたこの王宮も、日本の朝鮮支配時代にはひどく破壊され、王宮内部のものは略奪の対象になったと聞く。 なので、今日ではその再建された姿で見れるわけなのだが、その分それは以前のそれとはきっと違うであろうピカピカに見えるのだ。

a0086274_1637152.jpg 建物の内部は非常にガランとした印象を受けた。 もっとも当時のように、そこにいるべき人物たちは誰もいないのだからそれは当たり前だし、その人物たちが日常生活の中で必要としていた物も見ることは出来ない。 もし仮に見ることが出来るとしたら、きっと博物館にでも展示されているのだろうからそれはしょうがないのだが、、、
 
 建物自体は、地理的なことを考えればそれはすごく自然なことなのだが、その時代の中国や日本のものに酷似しているのがよく分かる。 瓦でできた屋根に、柱なんかが赤く塗られているところなんかは中国で「王宮」と呼ばれる所にはよく見られることだ。 王宮の内部の廊下や庭なんかも、「以前どこかで見たことがあるような?」と、思わせるほどよく似ている。 





 「 明洞 ミョンドン 」 

 東京でいう渋谷、原宿といった感じのするところだ。 基本的にショッピング街なので、そこに集まるのは若者や日本人観光客ばかり。 特に日本人の若い女性やおばさんたちは本気のようだ。 海外ブランドや外国資本のレストラン+ファーストフード店が軒を連ねている様はまさに日本のあの辺りと同じだ。



 「 ここに来れば、韓国の流行の最先端を目にすることが出来る 」とは言われているが、、、 結局、日本とそうあまり変わらず、いわゆる欧米文化の影響が出ているだけの話だと思った。





 「 仁寺洞 インサドン 」

 韓国の伝統工芸品や韓国最新アート事情とやらが見られると言われていると場所。

 確かに街のあちこちで、そういったものが売られているのを良く目にすることが出来る。 特に陶磁器のあの独特な青さは人の目を惹きつけるものがあった、、、 が、しかしそれ以上に僕の目を惹きつけたのは他の何物でもない、観光客の多さだ。 それはそこを歩くのが困難なほど、だ。

 店先に並ぶ工芸品や骨董品、それに紛れるようにして売られているお土産品に群がる観光客の数といったら、、、 もちろん、地元韓国の人々も家族連れやカップル、または友人同士で来るのだから、そのエリアの混みようといったら、、、 僕の思い描いていたような、伝統工芸品に触れるような、魅了されるようなひと時は、そこにはなかった。





 「 南大門市場 ナンデメンシジャン(?) 」

 朝鮮時代に建設された城門の中で一番大きいものが、この南大門。 方角からするとその城壁より内部に位置したところに「 南大門市場 」というのがある。 庶民的な市場といううたい文句につられて、足を伸ばしてみることにしたのだ。


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 取り扱っているのは日用品を始め、衣類、食料、電化製品などなど、どこの市場でも見られるものばかり。 何かの原料というものはどちらかと言うと少なくて、どうやら卸市場のようだった。

 驚いたのはあまりにも観光地化されてしまっていたこと。 それが悪いわけではないのだが、客引きのおばさんや、看板には日本語が溢れている。 日本人観光客が多いのは分かっているが、あまりにも露骨過ぎて少し嫌味なくらいだ。

 雰囲気があると言えば、あるのだがそれはどこか異様な雰囲気のことで、日本語で「 すごく安く眼鏡作ります 日本人だけの特別価格 」とか書いてあるような市場には行ったためしがなかった、、、



 とは言え、市場の活気は本物だ。 少し裏路地に入れば、ここで働く人々の腹を満たすであろう食堂や、水産物、キムチを扱う店が隠れるようにある。 もちろん観光客目当ての目立つだけの食堂も多々あるが。





 「 国立民族博物館 」

 以前から韓国の文化に少し興味があった僕は、少しでもその文化を知るために国立民族博物館に行くことにした。 話によると、やはりそれも地理的な理由からお互いの文化は似ていてると聞いている。 しかしながら、人の話を聞いて終わらせてしまうほど、僕の韓国文化を知ろうという気持ちは低くはなかった。 やはりそれを自分の目で見て、知るということは大事なことなのだ。

 それはやっぱり話に聞いている以上だった。 その文化の似ていることといったら、、、 地続きになっているわけではないのに、そこまで似ているのは実に不思議だった。 家屋の造りや、服装、冠婚葬祭の行事、日常生活の様子や、子供たちの遊びでさえも、、、 もちろん違うのだが、似ているのだ。 中には、もちろんそれも当たり前なのだが、中国の文化との共通点さえもあった。

 その内の一つは「科挙」だ。 科挙とは、当時の政府が役人を選ぶのに、一斉に試験を行うというものだ。 当時、その試験に受かれば、晴れて「お役人」となり、一生が保証されるとまではいかないが、他の職業よりはきっと待遇が良かったのだろう。 そんな昔の名残が、今日、日韓両国でもまだ見ることが出来る、、、 いわゆる「お受験」だ。



 もちろん韓国独自の文化にも目を見張るものがあった。 キムチの作り方や、オンドルと呼ばれる独特の床暖房、儒教に、ハングル文字の形成(ハングル文字は世界的にも稀な計画的に作られた言語なのだ)、、、 そのどれもが僕の目には新鮮で、また学ぶことが多かった。 それらを注意深く見ることで、今日の韓国文化に続いていると思うと、何故か感動してしまい、なんだか嬉しい気分になってしまった。 




 「 鍾路 チョンノ 」

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 ソウルで英語の教師をしていて、同じゲストハウスに泊まっているカナダ人が若者に人気の夜遊びスポットに連れて行ってくれた。 鍾路だ。

 ソウルの夜の一番の繁華街は、そこを行く若者と彼らを誘うネオンで溢れていた。 ちょっと洒落た感じのするレストランに、居酒屋、バー、ナイトクラブ、ディスコ、、、 夜の街に必要な全て揃っているようだった。 そこはどこか新宿歌舞伎町を思わせる雰囲気のするところでもあった。



 「居酒屋」とか、「IZAKAYA」と書いてある提灯が飲み屋の前にぶら下がっている光景には正直驚いた。 耳を澄ませばそこいらにタムロしている若者の口から「IZAKAYA」と言っているのが聞こえてきた。 別に韓国に居酒屋という文化があっても驚きはしないが、明らかに通りから見て目立つような提灯に日本語で「居酒屋」と書いてあると、調子が狂うというか、何と言うか、、、 「IZAKAYA」もいずれ「KARAOKE」のような世界共通語になる日が来るのだろうか? などと、つまらないことを考えずにはいられなかった。



 連れて行ってもらったナイトクラブは金曜の夜とあって、たくさんの人で賑わっていた。 最初にトライしてみた他のナイトクラブとは違い、ここのシステムは分かりやすいものだった。 システムなどと呼ぶほどのものではなく、ただ単にテーブルの中央に設置された氷のプールの中から好きな飲み物を手に取ればいいのだ。 しかも、付いてくるつまみは「 かっぱえびせん 」。 気楽に長居できそうなところに思えた。

 では他のところはどうかと言うと、どうやらある程度食べ物や飲み物をオーダーしなくてはいけないのだ。 しかも、別に食べたくもない果物と野菜のヨーグルトがけとかを、、、 韓国の人はお酒のつまみにそんな物を食べるのだろうか?



 店に入ってから、というか街を歩いているときから不思議に思っていたことが一つあった。 それは女の子の割合が以上に高いということだった。 僕の知る韓国人男性のほとんどは生真面目というか、シャイというか、、、 何にしても、夜の街が似合うような雰囲気の人は今までいなかったから、男の子のほうが少ないというのは納得できる話だった。 しかしそれにしても、女の子の数のほうが明らかに多いのだ。 そんな様子を眺めているうちに、僕はあることを思い出した。

 ここ韓国では、男の人は約2年強の兵役義務が課せられているということを。 彼らのほとんどは大学を卒業してから、その兵役に参加するのが一般的と言われている。 となれば、年頃の女の子の集まる場所に、同じ年頃の男の子が少ないという謎ははっきりするのだ。 別に誰に聞いた訳じゃないが、きっとそうなのだろう。 出入りしている男の子たちの顔を見れば、明らかに若いことに気付く。 察するに、19~22歳くらい。 そうなると、僕は自分の立てた推測は裏付けされることになる。

 韓国人の男の人曰く、「 その兵役の義務を終えてこそ韓国人の男として一人前なのだ 」と。 実際、相当きついものらしい。 今までと、今現在の北朝鮮との関係を考えれば、これは遊びではないのだから、きっと話に聞くよりも相当きついと思われる。

 しかも、大概の場合、この時期に男の子は女の子に「 決別の通告 」をされるらしい、、、 そりゃ、男も強くなるわな、、、 「 きっと男の子が、男の人になる時期なのだろう 」と、僕は恥じる様子も照れる様子もなく踊り狂う女の子たちを見て、そう思うのだった。





 そんなこんなで、ソウルの街や文化を一通り見たお陰で、少しは韓国の文化に触れ、韓国そのものに以前より少しは知識が増えたことと思う。

 それは僕にとってとても喜ばしいことだった。






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by hitoshi280477 | 2005-04-22 01:10 | South Korea

South Korea vol.1 「 韓国再訪 」

 僕にとっての初めての外国と言えば、それは11歳の時に訪れた韓国だった。

 ちょうどソウル・オリンピックの年だった。

 そして、14歳のときにも父の仕事の出張に無理矢理付いていったのが、二度目の外国であり、やはり韓国だった。



 あの頃の韓国と言えば、もちろんもうその当時の記憶なんかはかなり薄れてしまっているのだが、どちらかと言えば東南アジアの何処の街角にもあるような猥雑な雰囲気はなかったような気がする。

 ソウルの街に並ぶビルの多さに、東京にもまともに出たこともない僕はあっけにとられた思い出がある。 もっとも、一人で辺りを歩き回ったわけではないので、そこまで街の雰囲気を掴めたとは思えないが。

 しかしながら、韓国はやはりアジアの国の一つなのだ。 元気がある国に違いなかったことと思う、、、



 久しぶりの韓国に、

 経済成長著しい韓国に、

 近くて遠いと言われている韓国に、

 今は亡き父との思い出の地の韓国に、、、



 僕はまた来たのだ。





 十数年ぶりにこの国を再び訪れ、今度は自分の目でこの国を見るチャンスを前に、少し興奮している自分がいる、、、






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by hitoshi280477 | 2005-04-21 01:07 | South Korea