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Easter Island vol.3 「 逃したくない瞬間 」


 「 一生に一度しかないかもしれない機会を逃す手はないですよ 」



 僕は一緒に車を借りていた日本人旅行者たちにそう言った。 出発時間のことで少し納得出来なかったからだ。 時間はある程度は分かっていたが、それも定かではないし、また島の反対側まで車でいったとしてもそれなりの距離もあるし、何よりも早めの行動をすることが望ましいからだ。 何よりも、その瞬間を逃す手はないのだから、、、





 午前6時。 僕はその二人の同乗者と宿を出た。 そんなに早く宿を出たのは、もちろん島の反対側まで行って日の出を観る為だ。 昨日一日車を運転した結果、僕が一番車の運転が安定していたこともあったし、運転したかったこともあって、僕が真っ暗闇の島の道路を運転することになった。 左ハンドルの車を運転するという事、早朝に車を運転するのには少しばかり慣れているのもあって、人任せにするよりは自分でやりたいと言うのが本音のところだ。

 島内を巡る道路はほぼ一本道。 その大部分は舗装されてはいるが、道がウネウネと曲がりくねっているし、街灯のない道は真っ暗で、しかもその時に限っては、かなり強風と大雨が降っていた、、、





 6時半。 到着した頃のアフ・トンガリキはまだ真っ暗で、雨が吹き荒れていた。 そんな中では日の出どころか、15体いる筈のモアイの姿も見えない。 適当な所に車を停め、前日に買っていおいたクッキーで簡単な朝食を済ませる。 昨日の夜も遅くまで、その日に行った場所のこと、見たモアイのこと、今日の予定などを話し合っていた為に皆少し眠い。 あれだけ移動と観光を一気にやって、はしゃぎ過ぎ、疲れているのもある、、、

 しばらくして、窓の外に目をやると少し明るくなってきたのが分かる。 同時に雨も弱くなって来た。 辺りを見回すと、どうやら先程まで荒れるように吹いていた風も静かになっていたので、とりあえず外に出てみることにした。 まだ、寒い。

 15体のモアイがいるであろう海の方を見ると、確かにもうモアイの姿がうっすらとだが確認出来る程にはなっていた。 そう思うと、小雨も、風も、寒さも忘れて、僕はカメラを持って車を飛び出した。 日中の日差しの強さと暑さはなく、少し顔や手先が冷たかったが、それはあまり気にならない。 そんなことはどうでも良いのだから、、、

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 陽が上り始めると、それまでぼんやりと見えていただけのモアイの姿がよりくっきりとしてきた。 15体もあるのだから、その全容を見逃すことはないのだが、その一体一体に注視出来る程、陽の光は強くなって来た。

 それまでは何処からのアングルが良いのか場所選びや、「 ちょっと凝った写真を写真を撮ろうか? 」などと考えていたが、陽の上る様子を見て、僕は結局真っ正面からその15体からなるモアイ像たちをカメラに収める事にした。 余計な技術などは必要としないほど、その光景は素晴らしかった。





 しばらく太陽が雲の中に隠れていたが、僕は待っていた。 再び辺りが薄暗くなってはいたが、「 まだ何かある 」、そう思って僕はじっと待っていた。 モアイの向こうにある空を見ると、さっきまでの暖かみを帯びた空の色はなく、今では灰色がかっている。

 再び小雨が降り出し、風が吹き出してはいたが、僕は待っていた、、、 その瞬間を。


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 再び陽の光が現れたころのその光景は実に、、、 神々しい。 それまででも確かに存在感のあったモアイ像たちではあるが、雲の上から降り注ぐ陽の光が絶妙な演出を施していて、その姿がまるで他の世界からの使者のようにさえ見える、、、





 この瞬間を僕は待っていた。

 こんな光景を予期してはいなかったが、、、 早起きして良かった。



 「 一生に一度しかないかもしれない瞬間 」

 そんな瞬間を見逃す手はないのである。






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by hitoshi280477 | 2005-11-30 07:33 | Easter Island

Easter Island vol.2 「 眠る巨人・モアイ 」  

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 イースター島と言えば、島内に点在する石の巨像「 モアイ 」だ。 大きいものでは10mを越え、その重さは小さいものでも2トンくらいになるという。 石を削って造られたというのがとても信じ難いほど、その大きな石像は巨大だ。 近くに寄ってみると、その大きさに驚き、またそれが人造だということに感嘆せずにはいられない代物だ。

 このモアイ像、島内で確認されているのは1000体にのぼる。 現存しているだけでそんなにたくさんの数のモアイが存在している割には、モアイにはいくつかの謎があるのだ、、、





「 ラノ・ララク 」

a0086274_2010249.jpg モアイの名産地であるこの山では、今でも切り出し途中のモアイ像を見ることが出来る。 なので、実際にモアイがどのような過程を経て世に産み出されてきたのかがよく分かる。 少し離れた所からでも確認出来るその切り出し山は、大きい割に、その石の成分は柔らかいようで、実際触ってみるとすぐに欠けてしまう程だ。 

 西暦700年頃から始められたと言われるモアイ像製作。 当時使っていた道具は黒曜石と玄武石で、それら硬い石を使ってモアイを削りだしていたそうだが、それらの道具で10m級のモアイをこしらえるとなると30人掛かりで一年以上かかるそうだ。



a0086274_20105239.jpg 切り出し中のモアイを見るのは非常に興味深い。 山の一部であるモアイたちは、まだ生命が吹き込まれる前なので、ちゃんと出来上がったモアイを見た時の様などこか不思議な感じというか、神秘的な印象を受ける事はない。

 ここには、まだちゃんとした形にもなっていないが、もし仮に完成していたら最大のモアイになっていただろうと言われている未完成の超巨大なモアイ像がある。 20mを超え、その体重は数十トンにもなると言われている。



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 ちなみにモアイの石の質はというと、溶岩が固まって出来ただけの石なので、非常に脆い。 もちろんモアイを触る事は出来ないが、それと同じ素材でる石切山の一部を触ればそれが実感出来る。 それを注視すると、ただ単に砂利と砂が混じり合って出来ただけの石という事が分かる。 そうなると、実際に原始的な道具だけを使って切り出すのものそう難しくはないように思える。

 ただ、その分、雨と風による浸食はきっと避けられない事だろう。

 その素材の脆さから、運搬途中に頭がもげてしまい、そのまま放置されてしまった無惨なモアイの数も多い。 それに、特に風と雨が強いこの島では、モアイは永遠のものではないことだろうと思われる。



 少し離れた場所から切り出し途中のモアイや、運搬途中のモアイを見ると何だか不思議な感じを受ける。 正直、モアイが産み出される所を目にしない方が、モアイの神秘的な印象だけ心に残るから良いとも思うが、まだ制作途中のモアイや土に埋もれているモアイたちが不思議に見えるのもこれまた事実なのである。





「 プナ・パウ 」

a0086274_20113529.jpg 「 プカオ 」を切り出した小高い丘のような所。 モアイ像には、1300年頃から頭の上に帽子のように見えるものを載せるようになった。 これは実は当時の人々がまげを結っていたということから、頭の上にプカオを載せるようになったとか? 現存しているモアイの中で、実際にプカオを載っけているのは極僅か。

 素材は赤色凝灰岩と呼ばれる赤色 scoria で造られている。 実際目にしてみると、確かに赤みがかっている。 ただ、その大きさはこれまた大きい。 人の背丈よりも大きいものがゴロゴロしていて、島内のほぼ中心部にあるこの場所から島の端っこまで運んだといのは大変な苦労だ。 この小高い丘の上からは、きっと転がり落ちて、運搬途中に壊れてしまったものも多々ある事だろう。





「 アフ・トンガリキ 」

 ここにはイースター島最大のアフ、すなわち「 祭壇 」がある。 その祭壇の上に15体にもなるモアイ像が建ち並んでいる。 ほとんどのモアイ像たちが「 フリ・モアイ 」と呼ばれる部族間の争いの中で倒された為に、現存するモアイのほとんどは無惨にも倒れたままだ。 しかし、ここアフ・トンガリキのモアイたちは、91~95年にかけて日本の某クレーン会社と某建設会社の協力もあって、今こうして堂々と立っているのである。


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 実際は60年のチリ沖地震の時にも相当な被害を受けたらしく、その修復作業はそれら破壊された石を一つ一つ拾い集めて、時間をかけて丁寧に行われたらしい。 やはり日本が手伝っているとあって、その姿は立派に見える。 もし島民やチリ政府がそれを有り難く思っているのならば、日本の旗の一つも置いて欲しいものである。 実際、ここがモアイを観る島一番の名所になっているのだから、、、

 ここのモアイたちは、その全体風景も然ることながら、一つ一つもまた威風堂々としたものがある。 もちろんこんな大きな石像が15体も並んでいれば当たり前かもしれないのだが、ただその一つ一つを注視すれば、モアイに宿る何かを感じることが出来る。 比較的大きなモアイ像、彼らが村に住む部族の人々の心の中に、守護神として存在していたことだろう。





「 アフ・ナウナウ 」

a0086274_201245100.jpg アナケア・ビーチというのが島の西北にある。 綺麗な白浜と椰子の木を背景に、モアイたちが数体存在している。 ここのモアイは一見すると、やけに小綺麗な印象を僕は受けた。 その容姿があまりにも綺麗すぎるので、まるで最近造られたかのような気がしてならなかったし、その分雰囲気に欠けるような感じがしたが、実はここのモアイたちはこの砂浜に埋もれていた為に保存状態が良かったとか?

 7体あるうちの5体はほぼ完全な形で修復されていて、背中の微妙な線もよく見える。 そのうちの4体にはまだ角もしっかりとしているプカオも載っている。 残りの二体は見るも無惨な形となってしまっている。 それが、モアイ倒し戦争の結果なのである。 しかし、首なしモアイや、下半身だけのモアイは何とも言えない、、、

 少し離れた砂丘からその様子を見ると、まるで何処かのテーマパークか五つ星ホテルのプライベートビーチに用意された感じを受けるが、ここのモアイたちが一番自然に近いのかもしれない。 まあ、その綺麗な砂浜と、透き通った蒼い海、それに計画的に植えられた椰子の木に囲まれたモアイ像たちを見るのも悪くはない、、、





「 アフ・コテリク 」

a0086274_20131087.jpg 現存するモアイの中で唯一「 目のあるモアイ 」として有名なのが、ここアフ・コテリクのモアイだ。 他にもモアイが数体近くに並んでいるのだが、やはり目のあるモアイは何処か違うのである。

 モアイの目は赤色凝灰岩という黒目に当る部分と、珊瑚を砕いて造った白い部分からなっている。

 今では、本物は博物館に保管されているのみであり、他のモアイたちには目がない。 正直目がないのが当たり前だと思っていたのだが、本当は目が入っている筈なのである。 目が入っていると、かなり奇妙な感じと滑稽な感じがするが、実はそこにはちゃんとした理由があるのだ、、、



 一般的に、モアイ像は祖先の姿を形にしたものであると言われているが、モアイ像を立てた理由というのは、部族の力を示すものとされているが、きっと村やその部族を守る役目があったのだろうとも言われている。 というのも、説に上がっているのは「 マナ 」と呼ばれる神通力を目から発していたとされている。

 確かに、その目を見れば、何処か不思議な感じを受けずにはいられない。 そして、その目を見る人々が口々に「 目からビームでも出そうだね、、、 」と思う事だろうが、実際当時の人々にはそのように信じられていたようなのである。 実に不思議でユニークなモアイの存在ではある。



 島にはまだまだたくさんのモアイ像が存在している。 現存するものは1000体以上と言われる中で、実際に当時の姿形をしているものはかなり少ない。 それに運搬途中で壊れてしまったものや、交通の面からアクセスしにくい所、唯一海に面して立っているもの、女性の形に近いもの、祭壇がペルーのインカ文明の影響を受けたかのようにぴっちりと石組みが成されているもの、、、 実に様々ではある。 ちなみに空港でも、トランジットの乗客用にモアイが一体置かれている。





 、、、ポリネシアから渡って来た人々は、それらポリネシアの島々で見られるように酋長を中心とした部族社会があり、その社会の中で「 マラエ 」と呼ばれる祭壇を持っていた。 イースター島では、「 アフ 」と呼ばれる祭壇を同じ様に持っていたが、部族間の力を示す為に造っていたが、それに拍車がかかり、更に力を顕著に示すように人形の石像を造る様になったと言われている。 ポリネシアでは木像が一般的だったが、風が強いこの島では石が適していたからと考えられている。

 結局、モアイが何の為に造られたのかというのは、そういった部族間の力を示すとか祖先や神、王をかたどったと言われているが、祖先の像というのが一般的になったようだ。 そして、それらモアイ像たちが海を背にして立っているのは、村を守る為と言われている。

 ラノ・ララクから切り出され、島の色んな部分に運搬され、目から神通力を出し、村の住民を守ると言われているモアイ像、、、 様々な言い伝えや憶測、それに科学の力を持って研究・調査が勧められて入るが、最大の謎はその運搬方法だ。 というのも、モアイは小さいものでも1トンはする。 大きいものでは数十トンもあるのだから。



 今現在、説として有力なのは、、、

1)たくさんの木々を並べて、その上を転がして行くという方法。

2)顔をした状態で木のソリに載せ、そして並べた木々の上を転がすという方法。

3)立たせたまま、腰の所にロープを付けて左右交互に引っ張る方法。

4)木のソリに載せ、それを公園のブランコのような装置を使って運ぶ方法。



 実際に実験も行われたそうで、4番が有力とされつつも、2番の方法が一番早くことが出来たそうなのである。 3番の方法は、島の伝説による「 モアイは一人で歩いた 」というところからヒントを得ているそうだ。 僕としては、モアイが一人で歩いたという説が良いのだが、、、



 眠る巨人「 モアイ 」。 その存在感はその大きさのせいでだけでなく、大きい。 人々がモアイを造る事によってその当時に何を思い、何を願っていたかを知る良しもないが、こうして威風堂々と建ち並ぶモアイを見れば、なんとなく、、、 それとなく、、、

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by hitoshi280477 | 2005-11-29 07:30 | Easter Island

Easter Island vol.1 「 絶海の孤島 」

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 タヒチから約4000Km、南米大陸からは約3700Km、人が住む最も近い島からでも約1900Km離れている島、イースター島。

 地元の言葉で「 Te Pito O Te Henua 地球のヘソ 」と呼ばれるこの島は、南太平洋に浮かぶ正に絶海の孤島だ。 そんな島が世界中の注目を集めるようになったのは、1000体にも及ぶ「 モアイ 」と呼ばれる石像の存在があるからなのだ。





 西暦500年頃にポリネシアから渡って来た人々は、600年頃には畑で農作業をしたりして安定した時期があったことなどから、人口の数は急激に増えていった。 700年頃になるとモアイ像の製作が始まったとされ、その分、それが島の限られた資源である森林を大量に伐採にするきっかけになってしまったのだった。 1000年頃には人口が6000人から10000人増え、森林伐採が加速していたことから更に土地が痩せ、また木材の不足から船が作れない為に漁業もままならず、それらが食料確保の困難に繋がり、それが飢餓をまねき、そして最終的に部族間の争いへと繋がっていった、、、



a0086274_1914249.jpg 外部からの記録では、1722年にオランダ人が復活祭の日にちなんで名付けられ、その頃はまだ豊かだったと記されている。 1770年にはスペインからの領有宣言書に「 ロンゴ・ロンゴ 」という特別な文字でサインをしたり、1774年にはかの有名なジェームズ・クックが訪れた時に目にした住民の姿は物乞い同然だったと記録されている。

 19世紀に入ると、この絶海の孤島も悲惨な運命を辿る事になる。 捕鯨船やアザラシ狩猟船が西側諸国からやってきて、島民を奴隷として連れ去ったり、虐待したり、伝染病を持ち込まれたり、、、と。 最も悲惨だった時代は、フランス人のキリスト教宣教師たちによるロンゴ・ロンゴ表記による文化財を布教を妨げるとして焼き払ったことだ。 その行為によって、それ以前の時代背景を知る事は難しく、またロンゴ・ロンゴの文字も現在では目にする事がない。



 イースター島は火山で出来上がった島だ。 その為、島には小高い丘や、噴火口の後に水が張っている火口湖がある。 辺りに大陸もなく、島に大きな山もなく、大きな森などはかなり少ないので、常に風が強い。 実際、島の東北の空を見上げると、それからの天気の流れを読む事が出来るのだ。 また辺りに視界を遮るものは何もないので、夜になれば空には満天の星空が現れる、、、


a0086274_19142823.jpg 他の大陸や島から、こんなに離れた島にやって来た人々はいったいどういう人だったのだろうか? 最近のDNA鑑定の結果によると、彼らは南太平洋ポリネシアの人々ということになる。 実際、そんなことをしなくても、タヒチの言葉の中にあった「 Mauru マウル 」が「 Mauluru マウルル 」という「 ありがとう 」という意味の言葉がある。 彼らは何かの間違いや強制的にこの島に来た訳ではなく、星や海の様子を見ながら進む航海術を使ってこの島を発見したとされている。 航海術や乗り物が発展した今日でさえ「 絶海の孤島 」と揶揄される島へ、人々は大型のカヌーに乗って来たのだから、そのバイタリティーには驚かされる。

 またこの島の文化が、他のポリネシアの島々の文化と共通している事も、DNA鑑定だけでなく、彼らがポリネシアから渡って来たという事実を裏付ける。 そのうちの一つが、「 マケマケ 」と呼ばれる天地創造の神だ。 これはモアイ像とは異なり、ポリネシア文化圏ではよく目にする事が出来るそうだ。 特にイースター島では、島のあちこちにマケマケの石像が点在している、、、とか。






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by hitoshi280477 | 2005-11-28 07:27 | Easter Island

Tahiti vol.6 「 楽園の姿 」

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 タヒチがたくさんの人々にとって楽園を想像させるのは理解出来る話だ。

 あの青い空に浮かぶ大きな白い雲、透き通った海には色とりどりの魚たちが住んでいる。 島には南太平洋ポリネシア独特の雰囲気がいっぱいだ。 キツい日差し、蒸し蒸しとした空気、木陰を提供する椰子の木、風になびくパレオ、人々のゆっくりとした生活の様子、、、

 何処から持って来るのか、若い娘さんも、おばちゃんも、お婆ちゃんも、皆可愛らしい花を耳にさしている。 少し褐色がかった肌と黒髪に、それがまた映えるのだ、、、





 いつだか移り住んで来たポリネシアの人々は、今ではこの地に完全に定住している。 きっと豊かな自然の恵みが豊富な食料を提供しているからなのだろうけど、それ以上にここに居たい理由があるのだろうと思う、、、

 それはここタヒチの自然の素晴らしさだ。



 海底火山が爆発することによって産まれたポリネシアの島々。

 遠浅の海を持つ島々ではたくさんの綺麗な魚たちや珊瑚といった生物が住みついている。 海が遠浅な分、浜辺からは薄い青色をした海が広がっている様子が見える。 また、その火山の爆発が造り出した景観は、モーレア島などでよく見られるように、まるでオブジェのようにさえ思える所もある。 そして、その火山から作り上げられた土地は肥沃で、それがここに住む人々に豊かな土壌を提供しているのだ。 島は緑一色と言って良いほど森が豊かで、それがタヒチ独特の景観を形成していると言っても過言ではないと思う。





 今では世界でも名だたる観光地として有名なタヒチ。

 ここを訪れる人々はきっとその自然の優美さと、ポリネシアの魅力に惹かれることだろうと思う。 そうすることによって、人々の自然やポリネシア文化への関心が高まることを願ってやまないのだ。 というのも、ここがいつまでも楽園と呼ばれる環境でいられるかどうかは、今では人間によるところが多いと思われる。

 昨今の地球温暖化や、ゴミ問題はもちろんのことなのだが、、、



 約1700km離れたムルロア環礁ではフランスによる水爆実験が行われたこともある。 こんなに綺麗な海の中で、そんなに恐ろしい事が行われているなんて信じ難い事だが、実際実験は行われたのだ。 その結果、そのムルロア環礁周辺では奇怪な形をした魚が発見されているのだっ!

 何とも恐ろしい話ではある。

 一方では反戦や、自由や、博愛をうたっている国が、自国の領土を遠く離れたとても自国の領土とは思えない所でそんな恐ろしい事をしているのだ。 とんでも無い話である。



 それに、諸外国からの大量の観光客の訪れによって、島の人々の生活や意識の中にもいろんな変化が産まれて来ていると思う。 きっと今まで人々の心の中にはなかった物質中心社会の波が、ここタヒチにも来ているのは間違いない。

 特にパペーテ市内では、下品とさえ思える程モノが溢れている。 それらのほとんどは観光客用のモノだったりもするが、そういった事が島の人々に与えるインパクトは大きい。 今ではポリネシアの文化の素晴らしい一面であるパレオを着る女性の姿はなく、若い男性あたちはどこかのHip-Hop崩れのただ単にだらしない格好を好んでしている者も多い、、、





 「 タヒチは素晴らしい 」 、、、そう思う。

 あの青い空、白い雲、色とりどりの魚が住むタヒチアンブルーの海、空に突き刺さるようにして聳え立つ緑多い山。 ポリネシアのゆったりとして、物事に寛容で、人々に優しい文化、それにあの情熱的なタヒチアンダンス、、、



 それらを見た僕だから言えること、、、



 「 タヒチは素晴らしい 」



 その素晴らしい環境と文化を、ここを訪れる人々はもっと知るべきだし、地元の人々はもっと誇りに思うべきだ。

 タヒチがこれからも「 楽園タヒチ 」である為には、何はともあれ、人々の意識というのが一番大事な気がする。

 遥か南太平洋のど真ん中、ポリネシアを代表する島に来て、僕はそう思うのだ。

 やはりそれには実際に来て、自分の目で見て、体で経験しなくては分からない事だろうが、、、



 「 楽園タヒチ 」と呼ばれる今日のこの姿が、出来るだけ長く存在して欲しいものだ。


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by hitoshi280477 | 2005-11-26 08:03 | Tahiti

Tahiti vol.5 「 暑くて熱い夜 」

 南太平洋ポリネシア、タヒチの暑い夜と言えば、、、 「 タヒチアン・ダンスショー 」なのだ。 これは僕の中では他の何モノでも覆せない程強い定義なのだ。

 今では観光客向けにしか行われないのがほとんどだし、それが観光客向けなのは当たり前だし、値段も少々かかるし、、、 それでも、ここまで来て、それを目にしない話はないのである。


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 実はタヒチでの歌と踊りは一時期かなり衰退した時があるそうで。 というのも、遠くヨーロッパからやって来たキリスト教宣教師たちが、人々が歌と踊りにのめり込む事を良しと思わなかったらしく、その当時のタヒチの権力者に訴えかけて止めさせたそうだ。 諸外国と良好な関係を築きたかったその権力者は、歌と踊りを禁止してしまったのだ。

 とんでもない話だ。

 けれど、もっと昔に遥か東アジアからカヌーで渡って来た人たちである。 彼らの文化もまた強く、ラテンの血ならぬ、「 ポリネシアの血 」にそれが残っていたのだろう。 今でもこういった歌と踊りを、日常とはいかないが、大事な行事の時、もしくは観光客に対して人々はタヒチのその文化の一端を垣間見させてくれるのだ。

 神話や伝統を織り込んだ歌と踊りの中に、それを観る者は知っておいた方が良い事がある。 というのは、彼らの文化では文字で物事を書き残したりはしなかったそうで、そのほとんどが「 口頭伝承 」によるものだということだ。 想像してみれば、老婆が母親が、老爺や父親が、子供たちにその歌と踊りを教えていた様子が頭に浮かんでくるではないか?



 「 Tiki Village ティキ・ビラージュ 」

 観光村であるこの場所では、タヒチの文化の紹介や、真珠の養殖の様子、それに歌と踊りのショーが行われている。 滞在していた宿からは、歩くと約45分とかなり遠くにあったのだが、そんなことくらいでこの機会を逃す手はなく、僕は真っ暗闇の中を、夜9時頃に始まるダンスショーの為に歩き始めた、、、 幸いにも、歩き出してすぐに地元の人が車を停めてくれて、そこまで連れて行ってくれるというのだ。

 車から歩くつもりだった道を見て、なんとアホなことをしようとしてたのかと思ったのは後での話だ。 真っ暗闇のジャングルの間を歩こうとしてたのだから、、、 それにしても、地元民の優しい面を経験させてもらった。 有り難い話だ。


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 独特の太鼓のリズムに、人々歌声とギターの音が加わって、その雰囲気といったらもう最高だ。 踊りの中にも、女性陣の綺麗な声と甲高く叫ぶ声に、男性陣の太い掛け声が加わって、、、 特に丸いおばちゃんたちの歌声は素晴らしい。 あの体系だからこそ、通りの良い声を出す事が出来るのだろうけど、、、

 それに、衣装も素晴らしい。 椰子の葉や花飾りで出来た衣装は、僕なんかが想像してしまうポリネシアの踊りにはぴったり過ぎる程で、それが何だか嬉しい事でもあった。 実際、裏方でそれら衣装を準備している所を目にしたが、ほとんどの部分は毎回手作りで用意しなきゃいけないし、他の部分だって週一回くらいのペースで作り直さなきゃいけないそうだ。



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 タヒチの蒸し暑い夜のこと、照明に照らされた褐色の肌に、流れる汗が光ってる。 約一時間に渡って披露される踊りはとても激しく、それを観る人を興奮させ、魅了することは間違いない。

 僕が観て感じた事と言えば、、、 それは人々が本当に歌と踊りが好きそうな事だ。 というのも、観光人客用の為のショーなのに、歌っている自分たちや、踊っている自分たちが一番楽しそうであるからだ。 それに、フィナーレに近付いている為に、観客が惜しみない拍手を送っても、更に踊りは続くのだ。 まるで、終わりがないかのように、歌と踊りは続いていく、、、



 本来は、何かの宗教的もしくは慣例的な行事や、お祝いの時などの時のみ行われていたと思われるこの歌と踊り。 それが今では事実上観光客向けに披露されているという形ではあるけれども、それでもタヒチの文化とある一面を目にすることが出来て、僕は何だかとても有り難く思っていた。 これからの人々も、形はどうあれこの素晴らしい歌と踊りを伝承していって欲しいものだ。 もちろんタヒチアンとしての誇りを胸に、、、

 タヒチの暑い夜の熱い出来事、、、 きっと忘れることはないだろうと思う。 またいつか観に来たいものだ。






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by hitoshi280477 | 2005-11-25 08:01 | Tahiti

Tahiti vol.4 「 タヒチアン・ブルーの海の中 」

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 「 その場の雰囲気に飲まれているのだろうか? 」 そう思う事もあるが、実際タヒチの海の色は綺麗で、少し不思議な色をしている気がする。 それが、「 南太平洋の楽園 」を代表するタヒチの海だからなのかは分からないが、海は本当に綺麗だ。

 というのも、ここの海は遠浅になっていて、砂浜からの目線で視界の届く限りは、ほとんどの場所において薄い青が続いている。 航空写真のような高い場所から写した写真を見ると、その理由が分かる。 島の中心部は空に鋭く突き刺さるように聳えたっているにも関わらず、島の末端部分は平らで、それがしばらく海の中まで続いている。 なので、高台から見る海と海の色そのものは、他では見る事があまりない様な淡い青となっている。



 同じ宿に滞在していたスイス人に勧められて、シーカヤックに挑戦する事にした。 今まで、海のアクティビティーといえばスキューバーダイビングが一番やりたい事だったが、前に患った気胸から今ではダイビングはちょっと無理なのだ、、、 という訳で、カヤックを借りて海に出る事にした。



 聞いた所によれば、モーレア島の周りにも小さな島々が点在していて、特にカヤックを借りられる場所から向かう二つの島の間では、珊瑚や魚たちがいっぱい見れるとあって行く事にしたのだった。 ただ、カヤックそのものを漕ぐのは初めての事なので、少々手こずったが、まあ普通のボートを漕ぐのとあまり大差はないようだ。

 問題だったのは、目にはあまり見えないが潮の流れがあることと、海面で照り返す日の光による日焼けだった。 もちろんTシャツを着て漕いでいたのだが、いくらサングラスをしていても、下からくる日の光はキツい、、、

 結局、20分で行けると聞いていた場所は、僕の力では30分かかってしまった、、、 途中、カヤックを降りて、フィンを履いてカヤックを押してみるが、潮の流れには勝てない。 まあ、初めての事で慣れない事ばかりだから、時間がかかったのは良しとしよう。



 そして、借りて来たスノーケリング用具一式を付けて、早速海に潜ると、、、


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 たくさんの魚たちが、ひらひらと泳いでいる様子がよく見える。 やはり海の中はいい。 特に、日の光が強くて、それが海底にまで届いている瞬間を眺めていると、何だか心が洗われる様な気持ちになる。 潜っていた場所は、正直あまり珊瑚の多い場所ではなかったし、透明度も良かった訳ではないのだが、それでも生物の海中生活を見るのはいつも興味深いものだ。

 よく見ると、海底にへばりつく様にしてエイがいる。 どうにかして持参した水中デジカメで撮ろうと思うが、素潜りは出来るものの、果たして僕の素潜りの仕方が本当に良いのかどうなのかも分からない状況では、写真はもちろんのこと、ビデオを撮るのもしんどい、、、


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 しばらくスノーケリングをしてみて、魚たちがどうしてこんなに人懐っこいのか僕は不思議に思った。 稚魚たちはそうでもないのだが、成魚になると僕にまとわり付いてくるほどなのだ。 しかも、一番驚いたのは、エイたちだ。 始めは僕の周りをひらひらと泳いでいたので、僕は彼らを追いかける様にして水中ビデオを撮り始めると、、、 なんと4匹ものエイが僕に向かってやってくるのであるっ!! 僕は一瞬にしてパニックになってしまった!! 海に潜る事や、海中で魚を観賞する事には慣れていると思ってはいたが、いや実際慣れている筈なのだが、大型の4匹ものエイに襲われてはパニックになっても仕方がなかった。 久しぶりに海水をまともに飲んでしまった、、、



 、、、 落ち着いて考えてみると、きっと誰かがこの魚たちに餌付けをしているのだろう。 何せこの二つの島にはレストランがあったりして、そこに観光客たちがボートに乗ってどんどこやって来るのである。 そんな訳で誰かがきっと誰かさんたちを喜ばせるのにやっていることなのだろう。 そういうことは生態系を変えてしまうので、全くもって良くない事なのだが。



 ターコイズブルーの海の中は、とても綺麗な所だった。 いつまでこの青が保たれて行くのかは分からないが、いつまでもタヒチ色のターコイズブルーが存在していくことを願うばかりだ。






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by hitoshi280477 | 2005-11-24 08:04 | Tahiti

Tahiti vol.3 「 ちょっとパペーテへ 」

a0086274_827414.jpg 滞在していたモーレア島はタヒチ島から高速フェリーで約30分程の距離だ。 どちらかというと、バスで宿から港までのほうが時間がかかってしまう。 フェリーは一日約10便程あるので、いつでも乗れるというは便利だ。 しかも、900CFP(=約900円)くらいとあって、値段も手頃であり、地元の人々もここを訪れる観光客もこぞって利用することとなるのだ。

 船が港を離れてしばらくすると、もう視界がひらける。 進行方向には、ちょっとした用事で行かなければいけないタヒチ島のパペーテの街が良く見える。 島には緑が多いとは言え、パペーテ市内には無数の建物の姿が確認出来た。



 「 ちょっとした用事 」とは、思っていたよりも安く上がりそうな島での滞在費のお陰で、僕はモーレア島での、、、 つまり「 タヒチ 」での滞在を伸ばすことにしたのだった。 その為に、予約してある飛行機の便を変更しに、わざわざ朝6時に宿を出て、バスと船を乗り継いでパペーテまで行かなければならなかったのだ。

 もしかしたら電話一本で済みそうな用事ではあるが、これまでの経験から英語圏以外の外国での電話でのやり取り、特にフライトの変更に関しては非常に難しいことなのだ。

 というのも、英語圏以外の外国ではアクセントが微妙に違う為に、結構な手間となる。 まず名前からして伝わりにくいし、参照番号を聞かれてもどれだかさっぱりわからないし、それに本当にお互いが伝わり合っているかどうかわからないし、、、 ということが、今まで何度かあった。 しっかし、そんな事で何かの間違いがあっては困るのだっ!

 パペーテの街で早々にフライトの変更を済ませると(簡単で、しかも変更手数料は無しっ!)、街の様子を見に少し歩いてみる事にした、、、




a0086274_8275825.jpg 市内の中心部には仏語で「 Marche マルシェ 」という市場がある。

 平日にも関わらず、それなりの人とお店の数で混雑していた。 何が売られているかと言えば、、、 もちろん市場なので、野菜や果物、それに魚介類に肉類、後は日用品やら装飾品やらでいっぱいだ。 特に目新しい物は見なかったが、ペットボトルに入れられた濁っていて白い液体は、きっと地酒かなんかだろう。 こういった場所ではよくあることで、使い古しのペットボトルにお酒を入れているのだと思われた。 そして、間違いなく、癖があり、キツいことだろう、、、




a0086274_8281257.jpg まあ、何が目に付くかと言えば、人々のラフな格好だろうか? ほとんどの男の人がタンクトップに短パンで、女の人が派手の色合いのワンピースを着ていて、耳にハイビスカスなどの花をアクセントとして挿している。 特に、その花は何が良いとか、いつが良いとかはない様で、皆が思い思いに付けていて、特に特別な意味も無く、また別段お洒落にこだわっているようでもなく、極々自然であり、それが極々自然に見えたのは不思議な事ではある。

 もっと不思議なことといえば、髪飾りとして花を挿す事は、若い女性にこそ似合いそうな感じがするが、これが不思議と丸いおばちゃんや婆ちゃんが一番似合っていたりとすることだ。 ポリネシアの人々の謎なことであり、また典型的なことではある、、、




a0086274_8283415.jpg 市内には「 Le Truk ル・トラック 」と呼ばれるバスが走っている。 バスと呼べば聞こえは良いものの、実際はトラックの荷台の部分に座席を付けただけのものだ。

 しかし、これが乗車賃130CFP(=約130円)とあって、べらぼうに高いタクシーとは比べ物にならず、庶民の足として活躍している。 もちろん旅行者にも空港からパペーテ市内へ格安で行けるとあって利用価値大なのだが、運転手の気まぐれによって荷物の追加料金が発生したりするのだが、、、 一体、その基準とは?

 しかも、朝早くや夕方遅くになると、消えてなくなってしまうそうだ。 というのも、全て運転手の判断に任されているからなのだろうか? ただ、深夜と早朝に国際線の発着が多いタヒチ。 そんな気まぐれでバスが運行されていると、個人旅行者たちは皆困ってしまうではないか? 僕が新たに予約した便も、午前0時50分発なので、これは僕にとっても問題なのだ、、、



a0086274_8284964.jpg パペーテ市内は非常に混雑している。 特に交通量が多くて、それが気になってしょうがない。 とてもここが人々の想像する楽園タヒチの姿とは思えない。 それに、どの旅行者もパペーテを寄らずには何処にも行けないからだろうか、物価も高い。 総じて隣のモーレア島よりも高いのだっ! 全ての物がパペーテ経由で来ているにも関わらず、モーレア島の方が物価が安いというのはどういうことだ!? 

 人の数、建物の数、そして車の数、、、 そんな物たちに圧倒されて、とてもじゃないがパペーテにいられないと思った僕は、結局数時間を過ごしただけでモーレア島へと戻る事にした。 それでも大きいタヒチ島のこと、きっと島の反対側へ行けば景色の綺麗な所やのどかな所もあることだろう、、、 しかし、そこえすらも行く気にならない程、パペーテの市内は混雑しているのだっ!

 それでも、木陰で休み、談笑する人々なんかを見ていると、パペーテの街や、タヒチ島そのもの、それにタヒチ島の周りの島々の環境が少し変わったかもしれないが、人々はそんなに変わっていないのかも、、、?






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by hitoshi280477 | 2005-11-23 08:03 | Tahiti

Tahiti vol.2 「 モーレア島探検記 」

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 「 タヒチ、タヒチ 」と言うけれど、タヒチというのはフレンチ・ポリネシアの一つの島に過ぎない。

 ひょうたんのような形をしたタヒチ島は、大きい部分が空港や一番の街であるパペーテなどがある方で「 タヒチ・ヌイ 」と呼ばれ、観光客があまり行かない小さい方が「 タヒチ・イティ 」と呼ばれている。 空港を出ると、五つ星ホテルに行かない旅行者が向かうのがパペーテの街だ。 もともとタヒチ島はもちろんのこと、混雑したパペーテに滞在する気のなかったので、隣の島へと向かうフェリー乗り場へとさっさと向かう事にした。



 甲板に出てみると、青い海の向こうに緑が多くて、空に浮かぶ雲を突き刺しているような感じの姿の島が見えた、、、

 それが目指していた「 Moorea モーレア島 」だった。

 きっと火山活動によって産まれた島なのだろう、その姿はゴーギャンという画家が言っていた正に「 古城 」のようではあった。 振り返ってみると、そこまで鋭くはないが、タヒチ・ヌイもそんな形をしていた。 違っていた点と言えば、島にへばりつく様に存在する建物の数だろうか?



 モーレア島は周囲約60Kmの小さな島だ。 とはいえ、世界的に有名であるタヒチ本島からは高速船で30分の距離にある。 なので、宿泊施設や食事、その他のことに困ることはないと聞いていた。

 島を移動するのは、島を周回しているバス。 約2時間でこの島を一周するとの事なのだが、運賃は300CFP(=300円)。 移動手段のない僕にとっては、今後ともお世話になる乗り物なのである。

 島の西側にあるキャンプ・サイトに寝床を確保した後は、何だかゆっくりしたい気分になった。 最近は移動に移動を重ねる日々が続いた為に、心身共に疲れているのを感じていた。 なので、ここモーレア島でゆっくりしながら、今までの旅行のまとめと、今後の予定を検討することにしたのだった。


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 モーレア島は小さい島ながらも、充分に事が足りる所ではある。 更に僕には嬉しい誤算があって、それが滞在を長くするきっかけになった。 というのは、島の物価は僕の想像していたのよりも半額くらいなのである。 あんまり予算に縛られない様にはしているが、それが安く済むのなら言う事は何も無い。

 まずは宿代からして安く上がった。 選んだ二人共同部屋は、一泊1300CFP(=1300円)。 それに、近くのスーパーに行けば1mはあるバゲット(フランス・パン)が47CFP(=50円)、パスタ500gが90CFP(=90円)、炭酸飲料350mlは106CFP(=106円)、それに野菜も安い。

 もちろんここで生産出来ない物は高くつくのだが、それらは大概日常に必要としない物であったりするので、全体で見るとそこまで高い物は見当たらず、フレンチ・ポリネシアという観光地としてはビッグネームにも関わらず、総じて安く買い求める事が出来るのは嬉しい事だった。


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「 ベルベデール 」

 モーレア島のほぼ中央部に展望台がある。 緑が多くて、たくさんの山があるこの島の景観を少しでも見ようと思い、その「 ベルベデール 」と呼ばれる展望台へと行く事にした。

 一人で車を借りる気にはならないし、ましてやこの日差しの中で自転車で行く気にもならなかった僕は、島民の移動手段であるバスに乗って、島の北部にあるオプノフ湾へと向かった。 地図によると、そのオプノフ湾から展望台へと続く道があるとのことだったからだ。



 湾を離れて少し内陸へと歩き出すと、そこには耐え難い蒸し暑さがもう既に存在していた。 まだ運が良かったのは、少し曇りがちな天気だったので、直射日光がなかったことだ。 元々、日焼けというのはあまり好きではないのだが、肌の質が日に焼け易く、また黒くなり易い。 それに日に体を曝していると疲れるので、この曇りがちな天気は僕としては有り難かった、、、 などとそんな事を思いつつ、歩を進めるのだが、小さい頃から付きまとう腰痛と膝痛には終始悩まされた、、、

 とにかく緑の多い山ではある。 島の湿潤な気候と時折降り注ぐ太陽がこの森を形成しているのだ。 実は計画的に植えられたという椰子の木はここではあまり目に見かけない。 途中には放牧されている牛や、農業学校といった施設もあったりした。



 それにしてもキツい上り坂が続く。 展望台なのだから、ある程度高い場所にあるのは覚悟してはいたが、、、 正直、かなりしんどい。 アスファルトで造られた道を、徒歩で進んでいる人は僕以外は見かけない。 その脇を、レンタカーや観光バスが僕を抜かして行く、、、

 きっと「 あいつは何者? 」と思われていた事だろうが、それは気にするまい。 本当に久しぶりに歯を食いしばる事になり、持病である腰痛と膝痛との格闘になり、終いにはキツかった部活の練習を思い出したりしていた、、、 ふっ。


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 いつまでも続くくねくねと曲がりくねった山道を小一時間登った所で、やっと展望台へと到着した。 たかだか小一時間の登りではあるが、ペース配分もせず、いつものムキになる性格が災いし、休憩をとらなかった為に、必要以上に疲れた。

 やっとの思いで登ったベルベデール展望台からの眺めは、非常に良い景色に見えたのは言うまでもない。 目線の先、左手にはオプノフ湾が見え、右手にはクック湾が見える。 その合間には、空へと突き出る様に尖った山々が見え、眼下には樹海のような森が広がっている。

 山を注視すると、溶岩が固まって山が形成された様子や、断崖絶壁に苔が生えている様子などを目にする事が出来た。 また、オプノフ湾とクック湾の海の色が、その全景に何とも言えない調和を添えていた。

 その昔、あそこにクック船長の船も停泊していたんだね、、、



 帰り道は、それほど大変ではなかったが、帰り道をクック湾の方へと向かった為に、行きの登り以上に歯を食いしばる結果となり、やっとの思いでクック湾へと出た瞬間に、1~2時間に一度しかないバスを乗り過ごしてしまったのは「 良い思い出 」という事にしておこう。


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 泊まった宿が島の西側に面しているというのはかなりの好条件だった。 何せ毎晩日が沈むのを拝めるのである。 その時ばかりは、宿泊客がこぞって夕日を見に出て来ていた。 夕日が水平線に沈むことなどなかなか見ることが出来る訳ではないのだから、それもその筈。

 「 一日中何もしない 」という贅沢な時間を過ごす者がほとんどなのに、それに加えて最高の夕日が見えるのだ。 何も言う事はないだろう、、、 日没後の蚊の一斉攻撃を除いてはっ!






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by hitoshi280477 | 2005-11-22 07:57 | Tahiti

Tahiti vol.1 「 ふれんち・ぽりねしあ? 」

a0086274_8234756.jpg 南太平洋に広がる島々の中で、僕が最も行きたかった場所がタヒチだ。 何処で知ったかは覚えていないが、僕の頭の中では昔からずっと「 南太平洋=タヒチ 」であり、「 ポリネシア=タヒチ 」なのであった。

 そして、今になって南太平洋を横断する機会に恵まれると、僕は迷う事なくタヒチを経由して行く事を選んだ。 オーストラリアからでもニュージーランドからでも南太平洋をまっすぐ横切ることは出来るのだが、そんなことをしてはもったいないし、次の機会がいつになるのかは定かではないので、「 ここぞっ!! 」とばかりに僕はタヒチ行きを決めて、シドニーに到着した時に航空券を手配しておいたのだった、、、



 しかし、、、 事前の準備の段階で、少し不思議に思う事があったのだ。 というのは、タヒチの通貨は「 CFP フレンチ・パシフィック・フラン 」と呼ばれているのだ、、、 「 ふれんち? 」 こんな南太平洋の真ん中で、使用されているのがフレンチ・パシフィック・フラン? それは不思議で、不可解でしょうがない出来事で、調べなくては気が済まない懸案事項だったのは間違いない。





 紀元前3~4世紀頃、僕の人種と同じモンゴロイドたちが太平洋の島々を南下。 その後も島から島へと渡り、14世紀頃までにはハワイからニュージーランド以北、それにイースター島へと広がる広範囲に渡って行った。

 現在では、その地域は「 ポリネシア文化圏 」と呼ばれている。 こんなに広い範囲をカヌーを少し改良しただけの船で渡って行ったのだから、その決断、勇気、行動力には驚かされる、、、 その中の一つが、ここタヒチということになる。

 辺りにはたくさんの島々がたくさんあったにも関わらず、このタヒチ島が栄えた理由には、そのたくさんの島々のちょうど真ん中辺りに位置していた事や、土地が比較的肥沃だった事などが挙げられることだろう。



 16世紀頃にはヨーロッパ船との接触が次々とあった。 スペイン、ポルトガル、イギリス、、、 そして、フランス。 18世紀の終わりから19世紀始めにかけては、捕鯨船やキリスト教の布教活動の影響が強く、それがタヒチや周りの島々に混乱をもたらし、更にその影響からイギリスとフランスとの間でタヒチを巡る国際問題に発展していった。

 1880年、当時の主権者がフランスに主権を譲渡し、タヒチはフランスにとってのオセアニアにおける初めての植民地となったのだった。

 それからは、1957年にフランス領ポリネシアと命名され、翌年の住民投票で住民たちはフランスの海外領になることを支持し、今日に至っている、、、


a0086274_824629.jpg という訳で、タヒチはフランス領なのである。 なので、言葉もフランス語を公用語としている。 南太平洋のこんな遥か彼方にあるタヒチとその島々が、フランスに属しているは全くもって解せない話ではあるが、そういうことになっている。

 それが、住民投票で支持されたのだから、外国人である僕が特に言うべき事は無いのだが、、、

 まあ、そのお陰でフレンチ・ポリネシアの人々の生活は少し近代的になった面もあるだろうし、「 バカンス 」で来る観光客によって、島々も収入を得ている事だろうから、、、

 何はともあれ、僕は望んでいた通りに、タヒチに足を踏み入れたのだった。






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by hitoshi280477 | 2005-11-21 07:56 | Tahiti